諏訪哲史「りすん」 函の構造とは、著者と物語の戦いとは 考察、感想、ネタバレ [感想]

およそ三ヶ月半ぶりの更新という事で、ええ、まぁだからなんだというのか。
この夏はあまり本を読まなかったなぁ、とか、考えてたりするのですが、まぁとりあえずそれは置いておいて。

りすん (講談社文庫)

 今回読んだこの「りすん」も実は七月くらいに読んだ本だったと思います。諏訪哲史の著作は「アサッテの人」→「りすん」→「ロンバルディア遠景」の順なのですが、確か私は「アサッテの人」→「ロンバルディア遠景」→「りすん」の順で読んだ気がします。実は7月に「りすん」の文庫版が出るという事で、6月に本屋さんで「ロンバルディア遠景」と「りすん」をまとめて注文しようとした時に、「りすん」だけは文庫版の発売を待って購入したのです。なので「ロンバルディア遠景」を先に買って読んでしまいました。
 まぁ別にそれぞれの作品に物語的な繋がりは全くないので、どこから読んでもOKです。
 ただし、「りすん」だけは少なくとも「アサッテの人」の後に読むのがオススメです。いや、或いは諏訪哲史の本を読みたいとあなたが思ったら、とにかく最初に「アサッテの人」を読むべきかもしれない。
 しかも文庫版をオススメしたい。というのも、「アサッテの人」のあとがきには諏訪哲史の「アサッテ的感性」についての言及が推されている。そこを読めばさらに「アサッテ的感性」についての理解が深まるかと思います。
諏訪哲史といえば「アサッテ的感性」、「メタフィクション」或いは「入れ子構造」の及ぼす影響について深い造詣が見受けられます。
 「りすん」と「アサッテの人」はある程度セットとして考えて読むべきで、著者自身もそれを狙って書いています。「アサッテの人」では「アサッテ」についての理解を深め、さらにあとがきを読んだ後、著者の「入れ子構造」に対する――或いは小説を書く行為そのものに対しての反逆的な精神を理解した後に、「りすん」を読むと、そこには分かりやすく、そしてより実践的な著者の試みというものに触れることができるのではないかと思います。
 「りすん」においては「入れ子構造」についての実践的で、実験的な取り組み、或いは企みが手に取って理解できるかと思います。

あらすじ
 病に冒された妹、そしてその兄についての病室での物語です。実は、これを読み始めた瞬間に読者は間違いなく筆者の企みに触れることになる。この物語は100パーセント会話体、つまり「 」のみで構成される。全ては兄妹の会話で話は進められる。
 同じ病室にある女性が、恐らく妹と同じ病名を持つ女性なのだが、その女性がとても重要な人物となる。とはいっても、彼女はこの物語に直接関与はしない。この物語は実は彼女によって描かれているのである。そこにあるラジカセの録音機能を使って彼女は二人の会話の物語を描いているのだ。しかし、ある日二人にその企みがバレてしまうが、それでもこの物語の本質が変わることは、恐らくない。

入れ子構造とは
 マトリョーシカである。というのは唐突にしても、つまるところそういうことである。この物語において、その実験というのは「読者」と「登場人物」の隔たりを「函」によって表現している事である。つまり読者は函の外から登場人物を眺めているという構図がこの本の中にはある。
 いわゆる「劇中劇」的なもので、「りすん」ではさらにその構造にアレンジを加えてある。
 そういった「函の外と内」という構図に私は単純に面白いと思った。我々が小説の感想を述べる時に「物語に入り込む」という表現をよく用いるが、この物語は読んでいる側がいることで初めて成立し得る構造なのだ。「物語に入り込む」ための「道程」をこの物語はあらかじめ用意してくれているのである。登場人物に感情移入することはこの物語に必要無くて、我々さえも「入れ子構造」を成立させるための一要員なのである。
 函の中から登場人物は我々を見て、外から我々が見るという構図が、「りすん」を「りすん」たらしめる最もたる因果であると思う。

 この構図を理解していただけたら、つまり、筆者がこの物語を通して何が言いたいのか、ということである。
 ただ、さっきも言ったように私はこの構造そのものに、最早感動を得ている。それだけで充分な予感があるのだが、まぁ、それでもとりあえずは私なりに語ってみようと思う。
 無論、この構造が一種のメタなのは違いない。
 因みに、諏訪哲史はこの「メタ」という事に関してもよく言及することがある。

 「自分が多重函(メタ)の渦中にあり、その、書く者と書かれる者による際限のない内向と外向との間隙に、否応なく監禁されているという自覚。こうした自覚こそが「小説」である。また、すでに自覚してしまったその、のっぴきならぬ膠着の状態こそが、「小説」と称されるところの、ある「生」の様相である。(二八四頁、りすん文庫版あとがきより引用)」

 これに繋がる著者諏訪哲史自身の他の言葉もある。

 「そもそも、すべての小説が不可避的に、作品と作者という二重の函、つまり入れ子の構造を有する以上、世にメタフィクションでない小説など存在しえず、逆に、「函(メタ)」への意識を欠く作品は小説ではない。(一八五頁、アサッテの人文庫版あとがきより引用)」

 或いは、

 「この入れ子の函の底板を破ろうとする衝動こそが、作中で「アサッテ」と呼ばれているものの正体であり、つまり僕はメタフィクションに対する「嫌悪」ともいうべき感情を主動力にして本作を書いたのだといえる。(一八四頁、アサッテの人文庫版あとがきより引用)」

 「すでに自覚してしまったその、のっぴきならぬ膠着の状態」、「メタフィクションに対する「嫌悪」ともいうべき感情を主動力にして本作を書いた」この二つは恐らく同じ事を言っているのだと思う。「アサッテの人」時点で「嫌悪」としたものの正体とはつまり「すでに自覚してしまったその、のっぴきならぬ膠着の状態」から分類されるものの一つに違いなく、人それぞれ違うものの、著者は特に珍しい、衝動とか、情熱といえばいいのか、もはや執念のような情動の渦中で「アサッテの人」の執筆をしていたことをよく伺うことができる。

 そんな「無自覚な中で小説を書くこと」に対して著者は危惧を示している。それがこの物語の最も重要なテーマなのだろう。
 そう、この物語の構造とは、小説を書く者に対しての警告としての役割を同時に兼ねており、我々が物語と直結していて、尚且つ、内向と外向の間隙に我々自身が挟まれ、苦悩していることをなにより自覚しなければならないということを示しているのである。
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