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アニメ「へうげもの」考察、感想、ネタバレ、レビュー的ななにか [感想(アニメ)]


へうげもの Blu-ray BOX 1(Blu-ray Disc)

どうやら原作者はこのアニメ化についてあまり気に入っていないらしく、まぁそれはどうやら原作からの脚色について少々納得がいかないというのがネットでの大筋の意見らしいです。
まぁそれはそれとしても非常に面白いものだったと思った。
というか普段小説のレビューしか書かないのにこんなんしていいんかと思うのですか、まぁいいじゃん。そう自分に言い聞かせる。

物語は戦国時代、或いは安土桃山か、正直私は歴史にそこまで詳しくなく、この戦国時代と安土桃山時代の境界というのが今一つ理解していないのですが、まぁいわゆる戦国アニメと思っていただければよいのかと思います。けれども「いわゆる」というのはやはりあまりに失礼で、この物語の最も他の時代モノ作品と異するところは「日本数寄」を物語のテーマとして選んでいることです。
「数寄」というのは「好き」の当て字から由来するものらしく、室町時代頃にこの言葉が使われ始め、当初は短歌文化について言われていたらしいのですが、戦国時代には富裕層による「茶の湯」文化の繁栄から、こちらに意味がシフトしていったとか。
物語は千利休(物語序盤では千宗易)と古田織部正重然(フルタオリベノカミシゲナリと読み、豊臣秀吉から官位を授かるまでは古田佐助、通称フルサと呼ばれていた)を中心に描かれていく。主人公は古田。

この物語において重要なのはいくつかに分かれていると言える。特に毎回次回予告の最後の決め台詞として「武か数寄か、それが問題にて候」といわれるほど、この物語はもっぱら武将としての出世欲と、数寄者としての物欲の間隙にて葛藤する様が描かれている。それは根底にあるテーマとして終盤まで描かれているのだが、それを最もたる主題として置いているのは全三十九話中の1クール目(概ね織田信長暗殺あたりまで)くらいまでである。
2クール目は数寄についてひたすら描きだしている。古田の侘びへの執着心、利休の侘びの境地への経緯などがかなり濃厚に描きだされ、非常に見ごたえがあった。古田は己自身が見出す侘びによって過ぎたることをしでかし、それを利休に看破され、途中で二人の関係は離れるのだが、2クール目が終わる頃にそれはしっかりとお互い帰着点を見出し、仲を取り戻した。
1クール目は「武と数寄」、2クール目は「数寄」ときた。これはやはりこの話がただの戦国時代モノではなく、他との区別が可能な物語として成立するためにはやはり「数寄」寄りな物語として構成しているのだろう、と私は思った。この時代の「数寄」の重要性を作品として前面に表現するための構成であると思われる。恐らく、原作ではさらに「数寄」に重きを置いているのだろう。

そして3クール目である。ここでは随分とテーマが変化する。それは「業」である。特に利休の「業」について描かれている。ここでいう「業」は罪や我欲に対する背徳的な意味で用いる。
いまさらだが、この「へうげもの」、歴史に遵守するものではなく、作者による創作がかなり多く入っているらしい。
この物語の最も問題なのは、本能寺の変の作者による創作である。歴史では明智光秀謀反ということになっているが、この物語では、明智光秀は豊臣秀吉の巧妙な策略により騙し打ちにされた、という設定なのである。つまり主犯は秀吉ということ。この解釈は恐らく既に歴史研究家による一説なのだろう。たぶん。
この時、秀吉と利休はタッグを組んで信長を暗殺した。二人とも最終話まで本能寺の変に関する業によって苦しむ様が描かれている。
その終着として描かれるのは利休のみである。秀吉は最後に利休の一番弟子である古田に介錯を任せた。今まで業を共にした利休を殺し、その代わりに古田を生かし介錯をさせることで利休の代用としたのである。これについて秀吉は苦肉の策だったろう。それが最終話である。

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西村賢太「苦役列車」考察、感想、ネタバレ [感想]


苦役列車

なんというか、まず、芥川賞について。
ついこの間の火曜日に芥川賞の発表のニュースがやっておりまして、なんとなく去年の同じこの時期の発表を思い出さずにはいられませんでした。
今からちょうど一年前に発表された受賞作は朝吹真理子「きことわ」と西村賢太「苦役列車」であり、そのあまりにも対照的な人格、作品などがそれなりの話題を呼びました。そして今年も似たような経歴の対照があり、どちらも男性といえど、その記者会見からは二人の人間には大きな違いが見てとれました。特に田中慎弥氏の方は高校卒業以来まともに働いたことは一度も無いとか。そんなことや、「私が取って当然」発言もあって話題をかっさらった形となりました。
去年の芥川賞についても似たようなことが言えて、どちらかと言えば西村氏に話題が集中した感があったような、ないような。とにかく無頼派的な人間に興味が集まってしまうのは仕方ないことなのかもしれないと感じることが最近あります。私個人として、世論の興味は小説ではなく小説を書いている人にある、ということにはどうにも多少の反吐が出ることもあり、この話はここらへんで。

「苦役列車」というのは日雇い人足で生計をなんとか維持する十九の青年、貫太のお話です。なんとなく気分が乗って割と一気に読んでしまいましたが、これはどうして中々面白かったです。何故一年も初版を積んでいたのだと自分を叱責すべきところですが、そんなことはとりあえずおいておいてですね、とにかく自分のスタイルというものを確立しているというのが読み手にもすぐ伝わってくるような文章でした。
物語自体は非常に箱庭的である感じがしました。港湾人足の仕事場、三畳間の部屋、飲み屋、ソープなど、社会の底辺的背景をひたすら丁寧に書きだして、リアルさか、或いは立体をしっかりと見せてくれます。その丁寧さというのは、やはりディティールにまでこだわっているということがあると思います。どこを読んでも西村氏のこだわりというか、内発的なものから湧き出てくる文章というのはとにかく凝りに凝っている、と思わせてくれます。
空の煙草、隣の男の朝飯、コップ酒……実際読んでいただければこんな感じの言葉が非常にリアルに感じて仕方なかった。
話というのは人足の仕事場で出会った日下部という専門学校生に対しての感情の移り変わりを主に描いていて、その距離感というのも見事に感じ取れて、こういうのが小説の一つの醍醐味だよなぁ、と思うのです。
同じ仕事場で働き始めて、二人は出会うのですが、初めはよそよそしく、そして少し共通点を見出すとそこから一気に仲良くなる。貫太は人と話すのが楽しいのだろう、日下部との距離が縮まったとなると調子に乗り始めて、やがて今度は日下部の方から距離を置き始める。そんな折に日下部と日下部の彼女と貫太の三人で食事をすることになる。そこで貫太のenvyははっきりとしたものなり、妬ましくなった貫太は酷い罵倒を二人に浴びせかける。
envyというのは妬みという意味です。別に英語を使ったことに深い意味は無い。貫太は自身の中卒という経歴をやはり忌み嫌っており、他人の高学歴(少なくとも貫太よりマシな学歴)を認識すると僻みの反動としてそういった悪口がでてしまう。
つまり、そんなお話。

そーいやこの話にはパチンコとか競馬的な賭けごとが全くからんでこないよなって思いましたが、やはりそれは西村賢太氏の私小説であるからでしょうね。貫太の趣味はやはり読書なのです。

さらにそーいや映画化するんだって。前田敦子を脚本にねじ込んだらしいが、それについては西村氏はどうなんでしょう。お金入るからいいんでしょうか。
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J.D.サリンジャー「The Catcher in the Rye」ゆとりが考察、感想、ネタバレ [感想]


キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

「村上春樹訳 新時代の『ライ麦畑でつかまえて』 さあ、ホールデンの声に耳を澄ませてください。」というのが帯に書いてあった。帯って時々かっこいいのがあるよな、と思う事があるのですが、この「さあ、ホールデンの声に耳を澄ませてください。」ってのは少しインチキくさいよな、と思いつつ何かを書いていこうかと思います。
ちなみなんで少しインチキくさいって思うかってことを説明するなら、物語の導入よりも先にある表紙の帯には、商業的な意味合いでやはり客を引き付けようとする文章が書いてあることは理解できるんだけど、「さあ」とか「澄ませてください」なんて言われると、少し宗教の勧誘っぽい気がして、まるでこの物語はさわやかで神聖で青春ですよなんて、さりげなく言っているような気がしてならないから。そこまで爽やかじゃないし、青春っていうのは外れてないにしても、神聖な物語ではないだろうと思うのです。

あらすじはちょっと引用させていただきましょうか、うん、その方が分かりやすい。
「今から君に話そうとしているのはただ、去年のクリスマス前後に僕の身に起こったとんでもないどたばたについてだよ。」
高校を強制退学→むろん寮からも退去→ちょっと早めに寮から出て行ってやろう→およそ二日間の小旅行でのドタバタについての物語になります。
やっぱりこのお話について語るとなると、やはりアメリカ文学的というか、その文体について少しだけ話しておかなければならないと思いますので話します。本当はそれについて全然話したくないのですが、これから読もうって人に向けて、少しは書いておかなくちゃという義務感的なアレから話します。
簡単に言えば青年の一人称がただひたすら続く感じの文章ということになります。さっき書いた「今から君に話そうとしているのはただ、去年のクリスマス前後に僕の身に起こったとんでもないどたばたについてだよ。」もその中の一部です。ということはそれなりに感情移入した方が楽しめるだろうという本だということは簡単に予想がつきますが、この本がヒットしたのは日本でもちょうど半世紀ほど前になるので、今の若者はどうにも感情移入できない人の方が多いんじゃないかなぁと思います。
このまま、日本でヒットした時期についての時代背景について説明すると、学生運動が盛んになり、若者があらゆることに対して反抗精神を抱いていた時代ということになります。そんな時代の若者達を中心にこの本は売上を伸ばしたということです。
やはりそういった若者はこの本について共感をしやすかったのだと思います。ホールデンという主人公について自らを重ね合わせることができたということです。一方で、現代のゆとり世代がこの本を楽しく読めたにしても、共感するのは難しいだろうなと思うのです。
というのも、共感するには「反社会的」或いは「反抗精神的」な素質がどうにも必要になってくるだろうというのは、もう既に皆さんが理解しているだろうと思いますが、今の子どもたちに果たしてそれがあるのかと私は思うのです。
形からそれについての話をすると、現代は就職氷河期で、ホールデンくらいの青年は皆が苦労している時代なのですが、例えば理論武装してデモを起こすとか、(ヒッピーのようにとは言いませんが)若者だけで会社を興すとか、そんなことはほとんどないのが今の日本の相場だと僕は感じています。
そして今の青年はそれぞれの適応を求めて行動を起こします。就職先を妥協するとか、おうちに引き籠るとか、お嫁に行くとか、フリーターになるとか。限られた選択肢から選ぶようにして自らの将来を決めるというのが今の子どもたちの感覚だと思うのです。
それはそれで、ある意味長所ととろうと思えばとれるのです。なにせ、今時の子どもたちはどこにいっても、なんとか上手くやるし、ようするに適応力があると思うのです。
でも、なんだかんだいって、適応力なんてものはいつの時代でも誰にでも備わっているものでもあると思うし、やっぱり長所っていうのは違うでしょう。波風立てない事なかれ主義を無意識で受け継ぎ、適応力が自分の長所だと思い込んでいる子どもはいくらでもいるでしょうが。
……話がずれましたね。
つまり事なかれ主義、というのが日本人の特徴とよく言われたりしますが、それが順調に今の若者にも受け継がれているなぁ、と思うのです。
だから、僕はむしろこの本が日本でヒットした時代こそが異常だったのではないかと思うのです。
六十年代末期の若者たちはまったく日本人日本人してない、みたいな感じです。
それが、アメリカの主人公、ホールデンだと思うのです。

まぁ、アメリカ人であるホールデンが日本人日本人してないというのは当たり前ですが、つまり日本人の対極にいるような人間だと僕は考えています。
急に変な事を言いますが、僕はたぶん、かなり、ホールデン寄りな青年だと、この本を読んで後にネットの感想を読んでいて思いました。
やはり共感できたという声は少ないのです。僕はけっこう共感できたのです。それも、特に重要な部分について共感できたと思います。
この本のタイトル「ライ麦畑でつかまえて」は、ホールデンがある歌について勘違いしていたことについて語った時にできた言葉です。
それで、それについてのホールデンの台詞がこの物語においてホールデンを最もホールデンとして表現している場所だと思うのです。ただし、それはやはり共感できるか、とても難しい所だと思うのです。
とりあえずその文章をまるまる引用してみます。

「でもとにかくさ、だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。たしかにかなりへんてこだとは思うけど、僕が心からなりたいと思うのはそれくらいだよ。かなりへんてこだとはわかっているんだけどね」

正直ものすごく共感したんですね。間違いなく心奥のホールデンを表している一節だと確信しています。
ホールデン・コールフィールドがただの反抗精神の塊だとか、そういう結論ではなくて、もう一段階深い場所には僕みたいな人間がいると、僕みたいで、ホールデンみたいな人間がいると感じるのです。
この感覚を上手く表現できたら評論家になろうと思います。でもやっぱり、つたない文章しか書けないのです。
或いは、このホールデンの台詞はこれで伝えたいことを伝えきっているのだと思うのです。あとは恐らく受信側の問題なのかもしれません。
けれども、ここでこうやって書くからには、その電波の周波数をちょっと変換して、より多くの現代の人達に伝えられたら、本当にどんなに素晴らしいだろうと心から思うのですが、やっぱり少し難しいです。
いつかもう一度、それをすることができたら追伸を書きたいと、強く願います。
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諏訪哲史「りすん」 函の構造とは、著者と物語の戦いとは 考察、感想、ネタバレ [感想]

およそ三ヶ月半ぶりの更新という事で、ええ、まぁだからなんだというのか。
この夏はあまり本を読まなかったなぁ、とか、考えてたりするのですが、まぁとりあえずそれは置いておいて。

りすん (講談社文庫)

 今回読んだこの「りすん」も実は七月くらいに読んだ本だったと思います。諏訪哲史の著作は「アサッテの人」→「りすん」→「ロンバルディア遠景」の順なのですが、確か私は「アサッテの人」→「ロンバルディア遠景」→「りすん」の順で読んだ気がします。実は7月に「りすん」の文庫版が出るという事で、6月に本屋さんで「ロンバルディア遠景」と「りすん」をまとめて注文しようとした時に、「りすん」だけは文庫版の発売を待って購入したのです。なので「ロンバルディア遠景」を先に買って読んでしまいました。
 まぁ別にそれぞれの作品に物語的な繋がりは全くないので、どこから読んでもOKです。
 ただし、「りすん」だけは少なくとも「アサッテの人」の後に読むのがオススメです。いや、或いは諏訪哲史の本を読みたいとあなたが思ったら、とにかく最初に「アサッテの人」を読むべきかもしれない。
 しかも文庫版をオススメしたい。というのも、「アサッテの人」のあとがきには諏訪哲史の「アサッテ的感性」についての言及が推されている。そこを読めばさらに「アサッテ的感性」についての理解が深まるかと思います。
諏訪哲史といえば「アサッテ的感性」、「メタフィクション」或いは「入れ子構造」の及ぼす影響について深い造詣が見受けられます。
 「りすん」と「アサッテの人」はある程度セットとして考えて読むべきで、著者自身もそれを狙って書いています。「アサッテの人」では「アサッテ」についての理解を深め、さらにあとがきを読んだ後、著者の「入れ子構造」に対する――或いは小説を書く行為そのものに対しての反逆的な精神を理解した後に、「りすん」を読むと、そこには分かりやすく、そしてより実践的な著者の試みというものに触れることができるのではないかと思います。
 「りすん」においては「入れ子構造」についての実践的で、実験的な取り組み、或いは企みが手に取って理解できるかと思います。

あらすじ
 病に冒された妹、そしてその兄についての病室での物語です。実は、これを読み始めた瞬間に読者は間違いなく筆者の企みに触れることになる。この物語は100パーセント会話体、つまり「 」のみで構成される。全ては兄妹の会話で話は進められる。
 同じ病室にある女性が、恐らく妹と同じ病名を持つ女性なのだが、その女性がとても重要な人物となる。とはいっても、彼女はこの物語に直接関与はしない。この物語は実は彼女によって描かれているのである。そこにあるラジカセの録音機能を使って彼女は二人の会話の物語を描いているのだ。しかし、ある日二人にその企みがバレてしまうが、それでもこの物語の本質が変わることは、恐らくない。

入れ子構造とは
 マトリョーシカである。というのは唐突にしても、つまるところそういうことである。この物語において、その実験というのは「読者」と「登場人物」の隔たりを「函」によって表現している事である。つまり読者は函の外から登場人物を眺めているという構図がこの本の中にはある。
 いわゆる「劇中劇」的なもので、「りすん」ではさらにその構造にアレンジを加えてある。
 そういった「函の外と内」という構図に私は単純に面白いと思った。我々が小説の感想を述べる時に「物語に入り込む」という表現をよく用いるが、この物語は読んでいる側がいることで初めて成立し得る構造なのだ。「物語に入り込む」ための「道程」をこの物語はあらかじめ用意してくれているのである。登場人物に感情移入することはこの物語に必要無くて、我々さえも「入れ子構造」を成立させるための一要員なのである。
 函の中から登場人物は我々を見て、外から我々が見るという構図が、「りすん」を「りすん」たらしめる最もたる因果であると思う。

 この構図を理解していただけたら、つまり、筆者がこの物語を通して何が言いたいのか、ということである。
 ただ、さっきも言ったように私はこの構造そのものに、最早感動を得ている。それだけで充分な予感があるのだが、まぁ、それでもとりあえずは私なりに語ってみようと思う。
 無論、この構造が一種のメタなのは違いない。
 因みに、諏訪哲史はこの「メタ」という事に関してもよく言及することがある。

 「自分が多重函(メタ)の渦中にあり、その、書く者と書かれる者による際限のない内向と外向との間隙に、否応なく監禁されているという自覚。こうした自覚こそが「小説」である。また、すでに自覚してしまったその、のっぴきならぬ膠着の状態こそが、「小説」と称されるところの、ある「生」の様相である。(二八四頁、りすん文庫版あとがきより引用)」

 これに繋がる著者諏訪哲史自身の他の言葉もある。

 「そもそも、すべての小説が不可避的に、作品と作者という二重の函、つまり入れ子の構造を有する以上、世にメタフィクションでない小説など存在しえず、逆に、「函(メタ)」への意識を欠く作品は小説ではない。(一八五頁、アサッテの人文庫版あとがきより引用)」

 或いは、

 「この入れ子の函の底板を破ろうとする衝動こそが、作中で「アサッテ」と呼ばれているものの正体であり、つまり僕はメタフィクションに対する「嫌悪」ともいうべき感情を主動力にして本作を書いたのだといえる。(一八四頁、アサッテの人文庫版あとがきより引用)」

 「すでに自覚してしまったその、のっぴきならぬ膠着の状態」、「メタフィクションに対する「嫌悪」ともいうべき感情を主動力にして本作を書いた」この二つは恐らく同じ事を言っているのだと思う。「アサッテの人」時点で「嫌悪」としたものの正体とはつまり「すでに自覚してしまったその、のっぴきならぬ膠着の状態」から分類されるものの一つに違いなく、人それぞれ違うものの、著者は特に珍しい、衝動とか、情熱といえばいいのか、もはや執念のような情動の渦中で「アサッテの人」の執筆をしていたことをよく伺うことができる。

 そんな「無自覚な中で小説を書くこと」に対して著者は危惧を示している。それがこの物語の最も重要なテーマなのだろう。
 そう、この物語の構造とは、小説を書く者に対しての警告としての役割を同時に兼ねており、我々が物語と直結していて、尚且つ、内向と外向の間隙に我々自身が挟まれ、苦悩していることをなにより自覚しなければならないということを示しているのである。
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丸岡大介「カメレオン狂のための戦争学習帳」考察、感想、ネタバレ [感想]

こういう小説は初めてだった。読んでいるとなんというか、いじらしくなるというか、良い意味で。

カメレオン狂のための戦争学習帳

笑えるところもあり、わりと読みやすかったのだが、戦争の話やら政治の話は興味深くも理解しきるには最低限の学が必要だろう。私にはやや学が足らないせいで理解しきれなかった節もあったが、それでも興味深く読むことができた。
先述に「いじらしくなる」とあるが、それがこの物語の戦争の完全な中立の立場における主人公の態度に対してであり、また、それが私にもやはり被るのだ。

あらすじ
主人公の田中は高校の国語科教師で、彼は貯蓄や体裁のために職員寮に入寮する。この物語の世界では職員寮を使わない独身教師は異端とされる傾向がある。そんな世界で寮に住む者たちには主義というものがあり、その対立こそがこの小説における「戦争」なのである。
ものっそい大雑把に説明すると、こんな感じ。因みに寮には高校教師だけでなく、小学校教師などもいる複合的な単位での寮だ。

所々見えるおかしさ
読みやすいのにはやはり所々で面白い話が含まれるからだろうか。下ネタもあったりする。「俺の係助詞と先生のアソコを係り結びしようよ」なんて、なかなかセンスを感じる。
特に印象に残ったのは「案の定を使って短文を作りなさい」という問いに対するご回答から垣間見える大人と子どもの違いについてだ。これは是非とも読んで感じていただきたい。

二律背反
「いじらしくなる」というのはこの二律背反の中で自らの立場を崩さない田中についてだ。この主人公、かなりカッコ悪いので、読んでると内心モヤモヤ感がたまらない。田中は生徒にたかられる教師であり、浮気する教師であり、最後には狂ってしまう(?)教師であるためか、その悪印象がイマイチ拭いとれない感じである。また、同時にそういった立ち場に置かれているのは我々国民の大多数である。いつの間にか中立的な無抵抗主義となっている我々は、田中のようにもう一歩踏み出してはいいのではないだろうか、とさえ思った。なにかしら真面目に我が主義というものを持って政治に対して関心を持ってもよい様な、そんな気がするのである。田中が中途半端な立場なのは間違いないが、中途半端な立場をガッチリ守ろうとしているのはもはや一つの新たな主義のようにさえ感じられる(田中は中立主義なのだろうが、政治に関心のある自分の意見を持った中立主義であると思う。それに対して我々大多数の国民、特に若者は政治に無関心な中立主義である。政治に無関心なのに主義というのもおかしな気がするが)。
田中はカッコ悪いのだが、やはり物語の中心に置くことで右にも左にも両方の立場を観測できるという点で、やはりこの主人公の在り方は小説として成功を収めている。物語は反寮制派と維持派に分かれている。田中はどちらかというと反寮制派なのだが、実際に寮の中の反寮制派とはウマが合わない。革命派としての在り方を田中は否定し、結果として孤立してしまうのである。
飽くまで自身の主義としてそういう立場を取っている人間を主人公とするのはよく考えてみたら珍しい気がする。やはり物語の主人公と言えば正義の味方か悪の権化だから。こういう中立的な作品、また読んでみたい。
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諏訪哲史「アサッテの人」考察、感想、ネタバレ [感想]

「アサッテの人 書評」で一番上に姿を現すそのページの書評はまず的をまるで捉えていない。とにかく敢えてそれを一番最初に批判したい。「つまり吃音もまた個性、というそういう話」と言っているのだが、まったくもってそう言う問題ではない。
この小説の素晴らしいところを私の言葉をもって全く持って力足らずではあるが稚拙にも語っていきたい。

アサッテの人 (講談社文庫)

あらすじ
主人公がどこか旅行(はっきり言ってしまえば失踪である)に行った伯父とその妻の朋子の草稿を小説として構成するという一風変わった視点からの物語である。主人公はその草稿から恐らくは反芻し、考察を重ねてこの物語を作り上げていく。
その叔父とは吃音に青春時代を悩まされ、しかし、それがある日ポンと直ってしまう。自由な言葉の世界に身を置いたかと思ったら、そこは「定型」しかない束縛の世界だった。これに叔父は悩まされる。じきに妻朋子を失い、袋小路に迷い込む。
たぶん、大体こんな感じ。

これから感想や考察を述べる。できたら、作品を読んでから私の感想やらを読んでいただくのが幸いかと思う。
敢えて私なりの表現でこれを読んでくださっている方にわかりやすく伝えたい。けれど恐らくこの小説は前述した書評を書いている方のように、わからない方には死ぬまでわからない小説なのだと思う。他にも書評を読んでいると「言っていることがなんか難しい」的な言葉がよく見受けられる。これはある種「読む小説」というよりは「感じる小説」なのだと私は思う。そしてその感覚が今までに感じたことのない全く新しい小説であったから、私はこの小説が大好きだとこの時点で言っておく。
「アサッテ」
この小説を読んで何が面白いのか。私は様々なところに魅力を感じたのだが、まずこの小説における「アサッテ」の概念だ。
そもそもこの小説の「アサッテ」を明確に表現するのは難しい。表現者ならばわかる人も、もしかしたらいるかもしれない。「アサッテ」とは今までこの世界で表現されたことのない「何か」なのだと思う。近い言葉を選ぶなら「個性」だろうか。しかし、個性は個性という言葉であって違う。「アサッテ」は「アサッテ」なのだ。僕は「アサッテ」という言葉を何で表現しよう。「アサッテ」は「感覚」や「感情」に近い。感覚的なものであるからある種の表現が難しいのかもしれない。
やはり私には表現が難しい。恐らくそれが正確にどこにあるか私自身が理解してないからだろう。しかし、私はあきらめない。私のできる限りのことをして「アサッテ」をなんとか表現してみようと思う。
因みに「アサッテ」とは「アサッテの方角」の「アサッテ」からきている。
「アサッテ」をなんとか考えてみる
人によって「アサッテ」の在り方は違うだろうと思う。とにかく、「定型を嫌う袋小路を彷徨うエネルギー」と言ったら伝わるだろうか。人によっては袋小路に入っていることにも気付かず「アサッテの人」となる人も多い。というかその方が多いのだろうな。「アサッテの方角」というから、既成概念から逸脱した想像力のようなもの。
とにかく「アサッテ」とは底しれぬエネルギーであると私は思う。
行き場のないエネルギー、アサッテの方角へのエネルギー……とにかくさっきからとにかく言葉を並べまくってみたが、やはり説明がつかないので諦めることにする。
この表現しようとする試みが「アサッテ」とも考えられる。
諦めて普通に感想書きます
最初は難しい本なのだろうかと思って読んでみたが、読んでいくうちにどんどん惹かれていった。笑えるところもあり、文章のテンポが非常にいいので、とにかくどんどん読み進めた。「アサッテ」とはなんなのか?それが読んでいるうちに明かされていく。読者は恐らくここで二分されていく。「アサッテ」に共感できるか、できないかだ。共感できた場合私のような気分になることは間違いない。「アサッテ」自体が抽象的な概念であるから、「感じること」で読み進めなければ上手くいかないのかもしれない。やはり結局のところ、この「アサッテ」が上手く理解できるかどうかにかかっているのではなかろうか。
そしてその抽象概念は創作したことのある人にはわかるかもしれない概念なのだ。そこで群像新人文学賞の選考委員は全員が表現者、創作者であるからして、それに大いに共感したのかもしれない。聞けば選考委員が全員太鼓判を押したそうな。私としてはそれが大いに理解できる。ハッキリ言って百点満点の作品だ。
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アガサ・クリスティー「そして誰もいなくなった」考察、感想、ネタバレは無しで [感想]

とてつもないミステリーだ。史上最高のエンターテインメントの一つに数えられるだろう。古典であり、名作であり、誰もが気軽に触れられる文体は老若男女誰にでもオススメできる作品だと確信した。

そして誰もいなくなった (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

とにかく読み終わった後思ったのはその完成度の高さだ。これはもう完全に天井だろう。冗長を全く感じさせず、物語の完成度のみでここまで読ませた作品は今までになかった。これだけは誰にでも安心してオススメができる、間違いなくそんな作品だ。
オススメできるのには理由がある。
一つは先も言ったようにその読みやすい文体は読者を迷わせることが無い。ストーリーのみが頭に直接入ってくるような、そんなわかりやすい簡潔を極めた文章なのだ。
一つは名作の古典であるということ。これはつまりこの作品が後の世の作品に明らかに多くの影響を与えているということだ。絶海の孤島、嵐、クローズドサークル、十人の客人―、それらは私達がテレビドラマなどで必ずと言ってよいほど出会っているシチュエーションに他ならない。
そして最後の理由は言わずもがな、その話の徹底的な面白さである。これは是非ご一読していただいた後、誰もが共感することだろう。
アガサ・クリスティーはこれほどにまでプロット作りに才を恵まれていたのかと、嫉妬するほどによく出来上がった作品である。

そして誰もいなくなってしまって、僕らは路頭に迷う
一連の事件が全て完了し、僕らは必ず精神の路頭に迷う。それはまるで、十体の死体と共に孤島に置き去りされてしまったような、大げさにいえばそんな感覚である。結局誰が犯人なのか、エピローグを読む進める前に是非とも一度考えてみてほしい。そこには間違いなく犯人がいるし、僕達はその犯人と直面することになる。
だからといって、なに、身構える必要はない。何故かって?それは言えないな、なんたってこれはミステリーなのだから結末を言う事ほど無粋なことはない。それもとっておきのミステリーだ。読む人全てにこの感覚を味わってほしい。

あらすじ
敢えて、最後にあらすじを書く。いや、「敢えて」と言ったが別に深い意味はない。登場人物は個性豊かな十人。
元判事、体育教師、元陸軍大尉、老婦人、退役将軍、意思、青年、元警部、執事、執事の妻、この十人が絶海の孤島にU.N.Owenと名乗る人物によって招待される。そして十人はOwenによって順番に殺されていく。物語の重要なポイントは物語の中に出てくる童謡だ。その「十人の兵隊(訳書によっては十人インディアンの場合もあります)」の歌詞に従って一人一人が死んでいく。最後は犯人が残るはずだが、物語の結末は最後にヴェラ・クレイソーンの自殺によって幕を閉じ、そして誰もいなくなった。

誰ひとりとして犯人がいないこの殺人劇は一体どのようにして仕組まれたのか、エピローグにその真実が描かれている。
まだ読んでいない方は是非とも、ご一読してその結末を見届けて欲しい。
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朝吹真理子「きことわ」考察、感想、ネタバレ [感想]

関係ない話から。最近アニメ「へうげもの」が非常に面白いです。はい、では本題。

今年の上半期芥川賞受賞作です。同時に芥川賞を受賞した「苦役列車」も買いました。まだ読んでませんが。
全体的にはさわやかな雨雲のような、そんな印象。悲哀に満ちたその雰囲気は大人になった誰もが感じたことのある内容でした。

きことわ

物語自体はね、全くこれといって凄いとかないんですよ。貴子と永遠子が四半世紀ぶりに会うお話。過去の回想などの描写はとても美しく感じられました。先に言った「さわやかな雨雲」というのはさわやかなことには違いないけれど、それは過去の出来事であって、想い出でしかないという感じでしょうか。けれど、やはりその流れはやはり新たな日本文学を感じさせます。日本の文学であるからこその表現と言うのが散りばめられていました。近頃は外国の作品もよく読んでいたせいか、逆にそれを強く感じました。
外国語の小説がどうなのかはよくわかりませんが、日本語というのは全く同じ意味を持っていても、ほんの少しの書き方で全く違った性格になると思うのです。当たり前かもしれませんが、実は日本語においてその性格はとても顕著なものだとおもうのです。それ故に日本の文学はそれぞれの小説がそれぞれのジャンルを持っているというくらいの個性があります。
それが今回の芥川賞二作はとてもわかりやすく現れています。「きことわ」と「苦役列車」を本屋さんで少し立ち読みしてみてください。全く正反対の二作は並べてみると新しい発見があります。
そしてその個性豊かな作品が「芥川賞」や「直木賞」を受賞するのです。新たな文学の切り口はこういった個性豊かなものがよく選ばれるのでしょうね。今回、この「きことわ」が受賞したのもそういった理由でしょう。
その世界観が丁寧な言葉一つひとつに現れているようです。まさに純文学として素晴らしい完成度だという感じがいたします。
しかし、それ以上は敢えて特に何も言わないことにしましょうかね。なんとなく。芥川賞受賞作としてみるならばこれだけで充分なのです。
今日は本の感想と言うか、純文学としての感想になってしまいましたが、このあたりでおやすみなさい。
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P・K・ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」考察、感想、ネタバレ [感想]

ディックの本は初めて読んだことになるが、とても乾いた文体が印象に残った。だが、どうにもそれだけな感じもした。というのも時代がいま一つ合わなかったのかもしれないというのが正直なところ。これをリアルタイムに読んでいた私の父は絶賛していたが、私としては肌に合わなかった部分も大きい。
―できたら近いうちにまた読んでみようと思う。今回はだらだら読んでいたせいか、発見が少なかった。

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))


とは言っても、考察などは書いていく。

バウンティハンターのリック・デッカードは不法入国したアンドロイド「ネクサス6型」を8体処理することになった―、これだけで簡単なあらすじになるだろうと思うのでこれだけ書いておく。
前述したように乾いた文章は世界観をよく表していたと思う。というのも、この世界は核戦争後の放射能に満ちた世界で人間は大体他の星に引っ越しちゃった後の地球のお話なのだ。世界は荒廃しきって、文章自体がもはや悲哀な感情をこめている。

「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」と手塚治。
この小説ではアンドロイドと人間が登場する。一般的に(恐らく特に日本では)この二つは対比されるものとして描かかれることが多いのではないだろうか。というのも、日本では手塚治がそういった視点から徹底的に漫画を描き尽くし、現代でも彼の影響を受けた多くのクリエイターがそれを参考にした物語を作り出し、また彼自身の漫画をリバイバルとしてアニメ化したりしている。もちろん、言うまでも無く漫画は現代でも未だ売れている。こういった視点から私は読み進めていったのがまず大きな間違いだったのかもしれない。というのも、この作品では対比というよりはアンドロイドと人間を同列に扱っているのが読んでいるとよくわかる。物語の中では人間とアンドロイドに区別がほとんどない。アンドロイドも「人間らしさ」を持っているし、人間も「アンドロイドらしさ」というものを持っているのだ。
そんな世界でそれを読む我々「人間」に思い知らされるのが、「真摯さ」や「親切さ」のようなものではないだろうか。私はこれを読み終わってしばらく考えているうちにそんなことを考えた。
手塚治が根底的な「愛」などについて描くなら、こちらはもっとより日常的な感情について語っている気がする。
SFなのに、どうにも身近な雰囲気がある。それがこの作品の特徴なのかもしれない。だからどうにも同じSF物語として読む前から同列に並べていると、どこに感動したらよいか、どんな気持ちで読めばいいかわからなくなってしまう。それが今回の反省点だ。
流れよわが涙、と警官は言った (ハヤカワ文庫SF)

というか、私はこんなことが書きたいのではないのだ!もっとこの作品のいいところを見つけて、私自身もこの作品を楽しんで太鼓判を押したいのだ!(笑)
左の画像は同じくディックの「流れよわが涙、と警官は言った」です。これもそのうち読むさ。けどその前にもう一度こっちを読み返したいね。流れよわが涙、だから、涙を流したくても流せない警官の話なのか?と妄想しつつ、今日はこれからアガサ・クリスティーの「そして誰もいなくなった」を読見始めようと思います。
あぁ、そうだ、今年の芥川賞の「きことわ」も読んだので、近いうちにまた感想を書きます。では。
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G・ガルシア=マルケス「百年の孤独」感想、考察、ネタバレ [感想]

あまりにも壮大な内容のせいもあったり、最近賞の〆切が近かったり、祖父が息を引き取ったりして中々読む暇が無かった。それで本日やっとこさ読破いたしましので、感想を書きます。
百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967))

この物語はブエンディア家の百年の孤独とマコンドの誕生と繁栄から滅亡までを余すことなく描いたものだ。とにかくその情報量に圧倒される。この物語は99%を決して明るくはない、孤独な生と死について語られている。物語は誰かが本当に語っているような語り口で進んでいく。誰もがこの作品を読破した後に思うことなのだろうが、結局のところ「愛」とはなんだったのだろう?著者のG・ガルシア=マルケスにとっての愛とは何だったのだろう?きっと、誰もがそう思うはずである。何故ならこの物語は「孤独」のアンチテーゼとして「愛」があるのは間違いないからだ。終盤で愛によってアウレリャノ(豚のしっぽ)が生まれた時に、やはり私は幸せな終わり方がアルキメデスの羊皮紙に書いてあるに違いないと思った。だがそれは簡単に裏切られ、結局マコンドは最後に人々からの記憶からも、蜃気楼のように消えて何も残らなくなってしまうのである。

最後の最後で裏切られるのは物語の定石なのだろうと、今書いていて思った。もしかしたら、G・ガルシア=マルケスは実のところこの物語に「愛」など、この物語の手品の小道具の一つに過ぎなかったのかもしれない―、というのも感覚的にではあるが、私はこの物語に幸せな終末を用意するのはやはり少し違うのではないかと思うのである。恋愛ものでもなければ正義の味方が現れる物語ではないのだ。そういった物語にはそういった物語の定石というものがある。恋愛ものでは疑いの要素がないとつまらないし、悪の敵が出てこない正義の味方の物語などつまらない。これはやはりそういった類の話ではなくてG・ガルシア=マルケスの作った物語なのだ。
物語を楽しもう、そしてそれを素直に受け入れてみると、私なりには辻褄が合うのである。著者は哀切、憎悪、愛、破壊など様々な要素を含めた物語をただ私達に提供してくれただけのような気がする。物語の結末が滅亡であるのも、それがもっともマコンドのあるべき形で、自然な流れであるように思える。逆に、もしもこの物語が「愛」によって結末を迎えたなら、私にとってむしろそちらの方がよくよく考えてみると不自然なのである(ただ、こういった不幸な結末が用意されているのは間違いなく物語の仕掛けの一つであり、読者はそれに自らその罠にはまり、もがくというのがこの物語の―、いやむしろ全ての物語に共通する楽しみ方である)。

だから、結局のところ、「私はこの物語を楽しめた」というだけで感想は終りなのだ。私は敢えてあまりここで何か特別な事を書くようなことはしない。ただ、どうにもこの作品で私が考えたこと(つまり愛と孤独について)はひっそりと私の胸の内に秘めさせて欲しい。きっとその答えを見つけ出すころには私はここで感想を書いていないだろうから。

結局マコンドは消え去ってしまったけれど、そこに我々は何もないとは思えない。何故なら我々はブエンディア家の百年に共に生きてきたからだ。そう感じさせるのである。
先日私は祖父を亡くし、もう血と肉は灰になったり蒸発したりしてしまって、残るのは骨のみだ。そこにはもういない。それは間違いないが、そこに何もないとは思えない。まさにこの感覚と似ていると思った。というか、同じだろうと思う。また、祖父は生前日記をつけていたらしいのだが、私はそれをたまらなく読みたくなった。だが、一体どこに行ってしまったのかその日記は消失していた。そこで、私は百年の孤独を読んでいると、ラテンアメリカに住んでいた祖父の日記でも読んでいる気分になってきた。本当にラテンアメリカに住んでいたわけではない、何が言いたかったかと言うと、それくらい私はこの物語を身近に感じ、ないはずのものをあると思いこまされた。
祖父は行年99でこの世を去った。百年に負けたが、匹敵するレベルである。私はこの物語を読んで人の一生のスケールの大きさを感じた。「あぁ、あの出来事があったのはもうそんなに昔か」と思うのである。

是非ともじっくり時間をかけて読んでほしい一冊だと思う。私はひどく遅読なものだから、この本を読むのにかかった時間をざっと計算してみた。一時間で20ページ弱ほどしか読めないので、473÷20=23.65時間かかった。ところどころ結構読み返したりしたので、多分30時間弱はかかっているのではないかと思う。それで原文がスペイン語の日本語訳なので、とっつきが悪くはじめは結構苦労しながら読んだ。けれども、読んでよかったとおもう一冊だったのは間違いない。
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